徳島県阿南市
太龍寺(たいりゅうじ)
空海の青年時代の修行地・大瀧獄であり、四国八十八箇所霊場第二十一番札所の太龍寺は、桓武天皇の勅願により開基した。標高600メートルの太龍寺山の山頂付近にある。 境内から南西650メートルの舎心ヶ獄は、空海が著した『三教指帰』に『阿国太瀧嶽にのぼりよじ』とあるように、虚空蔵求聞持法を修した場所としても有名である。舎心は捨身を通じ、空海は百日間修行をしても悟りを得られず、谷に身を投げようとしたとも伝えられている。
本堂には空海像があります
大安寺(だいあんじ)
仏門の世界に空海が入ることになったきっかけとなった虚空蔵求聞持法について、『三教指帰』のなかで「ここに一人の沙門あり。余に虚空蔵求聞持法をしめす」とあるが、この沙門が大安寺の僧・勤操であるといわれてきた。 これは勤操から一代前の師である道慈(どうじ)が、唐から虚空蔵求聞持法を持ち帰ったと伝えられているためである。空海は大安寺の僧として出家したと伝えられ、唐から帰国後、天長六年(829)に別当に任ぜられたともいう。
大師堂で大日経を説いた
久米寺(くめでら)
聖徳太子の弟・来目皇子の祈願のために推古天皇が建立したと伝えられる久米寺。空海が夢のお告げで、大日経(密教の根本経典)を発見したのが、久米寺の東塔であるといわれる。 空海は経巻を読もうとしたものの、梵語の発音を漢字に置き換えた部分が少なかったため、全てを理解することは難しく、これを機に唐へ渡ろうと決心したもいわれる。現在は塔の礎石のみが残っている。
戒壇堂は江戸時代に再建されました
東大寺(とうだいじ)
空海と東大寺の関係は深く、延歴22年(803)に戒壇院で受戒したといわれている。当時は東大寺、観世音寺、下野薬師寺の戒壇のいずれかで受戒しなければ、正式な僧侶と認められなかった。 空海は唐から帰国後の弘仁13年(822)2月、大仏殿前に真言院(灌頂道場)を建立するように命ぜられた。六宗兼学の寺で南都を代表する東大寺に、密教が本格的に受け入れられる端緒となった。
日本最古の梵鐘がある
観世音寺(かんぜおんじ)
かつては三戒壇院の一つが置かれ、九州寺院の中心だった観世音寺は、天智天皇が亡くなった母・斉明天皇の冥福を祈るために発願し、天平18年(746)に落慶した。 大同元年(806)に唐から九州・大宰府に帰り着いた空海だが、高階遠成や橘逸勢らと違い、朝廷から帰京の許しが出なかった。その間、滞在したのがこの寺といわれている。
直筆の寺号額がある
東長寺(とうちょうじ)
唐から帰国した空海が、一軒の船宿に仏像や経本・仏具などを納めて寺としたのが起源とされている。そして密教が長く東に伝わるようにと祈願して「東長密寺」と名付けたともいわれる。 本堂には自作と伝えられる大師像や、不動明王像があり、正御影供の時にのみ開帳される。福岡市の指定文化財である六角堂には六体の仏像が安置され、毎月28日の不動護摩供のときにのみ開扉される。
三大霊跡の一つ
善通寺(ぜんつうじ)
真言宗善通寺派の総本山であり、四国八十八ヶ所霊場の第七五札所として知られる善通寺。空海の誕生地とも知られ、高野山や教王護国寺とともに空海のゆかりの三大霊跡として、古くから信仰を集めている。 空海が師の恵和和尚が住した長安の青龍寺を模したとされる。宝物館には「一字一仏法華経序品」や唐から持ち帰った「金銅錫杖頭」が国宝として保存されている。
世界遺産に登録されています
教王護国寺(東寺 きょうおうごこくじ)
東寺真言宗総本山であり、本尊は薬師如来。天長元年(824)に空海は造東寺別当となり、伽藍の造営にあたり、以後真言宗の根本道場となった。 講堂内に、仏像で密教空間を表現した。堂内中央に、五智如来、東に五大菩薩、西に五大明王、その周りに梵天、帝釈天、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を安置している。五智如来は国の重要文化財、他の仏像は国宝に指定されている。
長岡京市今里にあります
乙訓寺(おとくにでら)
聖徳太子が創建したといわれる乙訓寺。延歴4年(785)、桓武天皇の側近・藤原種継暗殺を疑われた皇太弟・早良親王が幽閉され、無実を訴えたまま絶命し、その後災厄が続いた。嵯峨天皇の命による空海の別当就任は、親王慰霊の祈祷の効験を期待したものだった。 空海が滞在中、最澄がこの寺を訪れ、密教伝授を願い出たため受託し、のちに神護寺で結縁灌頂を授けた。